松雲山 要法寺縁起
今から約七百十年前の当山は、地頭北条泰知の屋敷でありました。泰知は鎌倉幕府の執権北条泰時の次男で熱心な念仏信者の父泰時の影響を受けていたため、最初は念仏信者でした。ところが、日蓮大聖人が龍の口で処刑(龍の口の法難)されんとした時、江の島の方より光り物があらわれ、処刑人の刀が折れて飛び散り、処刑人が失神するという不思議な現象を見聞した泰知は、以来、深く法華経を信じ大聖人に帰依するようになりました。そしてこの平塚の地において日夜熱心に法華経の信心修行をつづけ、その功徳によって世人の尊厳を一身に集めるところとなり、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ慕われるようになったのです。
弘安五年(1282年)九月八日未明、泰知の夢枕に「日蓮大聖人が本日身延山を出発し、九月十六日平塚にご来臨される。謹んでお迎えし仏法の奥義を聴聞せよ」という七面天女のお告げが有りました。そのため泰知は心から喜悦し七日七夜にわたって齋戒沐浴を自らに課して心身を清め、大聖人ご一行をお待ちしていました。いよいよ九月十六日の午後四時ごろになって、泰知は一族郎党そして長谷川常徳入道、鶴若太夫はじめ平塚の主だった人々と共に、謹んでご到着のご一行を自らの屋敷にお迎えしたのです。
大聖人はその夜、集まった多くの人々のためにご説法を行い、法華経神力品の「四句要法」の一節を解説されました。その時、邸内にあった平 真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれ、それを眼前に見た一座の面々百六十余名は等しくお題目を唱和し、随喜讃仰し、法華経の信者になったのでした。わけても泰知は深く感動し「たとえ北条氏に背き父君の意志に反するとも、この有難い法華経のためならば」と大聖人に懇願して直弟子となりました。また、自ら館を献上して寺とすることを誓い、大聖人より紫雲の瑞相にちなみ「松雲山」そして四句要法の一筋にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき、自らは松雲院日 上人との法号を賜り当山は開山されたのです。時に弘安五年九月十六日のことでありました。
当山は開祖に日蓮大聖人、二世に九老僧日澄上人をいただき、三世に開基松雲院日 上人(平塚左衛門泰知)が名を連ね、以来歴代代法燈を相継ぎ、七百年以上のあいだ法華経の道場として今日にいたっています。なお、大聖人は、当山御一泊の後、二十数日を経た十月十三日に東京池上本門寺にて御入滅されたことは誠に哀惜の極みであります。
弘安五年(1282年)九月八日未明、泰知の夢枕に「日蓮大聖人が本日身延山を出発し、九月十六日平塚にご来臨される。謹んでお迎えし仏法の奥義を聴聞せよ」という七面天女のお告げが有りました。そのため泰知は心から喜悦し七日七夜にわたって齋戒沐浴を自らに課して心身を清め、大聖人ご一行をお待ちしていました。いよいよ九月十六日の午後四時ごろになって、泰知は一族郎党そして長谷川常徳入道、鶴若太夫はじめ平塚の主だった人々と共に、謹んでご到着のご一行を自らの屋敷にお迎えしたのです。
大聖人はその夜、集まった多くの人々のためにご説法を行い、法華経神力品の「四句要法」の一節を解説されました。その時、邸内にあった平 真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれ、それを眼前に見た一座の面々百六十余名は等しくお題目を唱和し、随喜讃仰し、法華経の信者になったのでした。わけても泰知は深く感動し「たとえ北条氏に背き父君の意志に反するとも、この有難い法華経のためならば」と大聖人に懇願して直弟子となりました。また、自ら館を献上して寺とすることを誓い、大聖人より紫雲の瑞相にちなみ「松雲山」そして四句要法の一筋にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき、自らは松雲院日 上人との法号を賜り当山は開山されたのです。時に弘安五年九月十六日のことでありました。
当山は開祖に日蓮大聖人、二世に九老僧日澄上人をいただき、三世に開基松雲院日 上人(平塚左衛門泰知)が名を連ね、以来歴代代法燈を相継ぎ、七百年以上のあいだ法華経の道場として今日にいたっています。なお、大聖人は、当山御一泊の後、二十数日を経た十月十三日に東京池上本門寺にて御入滅されたことは誠に哀惜の極みであります。